帰りたくない。

創作ストーリー

「ねえ、まだ帰りたくないよぉ。」

「えぇ? 夕ご飯作らなくちゃいけないから、帰らなくちゃダメよ。」

 モールで女性と小さい男の子が揉めている。親子のようだ。母親は30代くらいで、男の子は幼稚園ぐらい。体の大きさからみるに年中さんか年長さん……。

 となると5歳か6歳くらいである。

 どうやら、帰るか帰らないかで言い合っているようだ。

 まぁ。無理もないだろう。モールには、食料品などのスーパーや服屋さん、フードコートなどが敷地内にある楽しいところなのだから帰りたくないという気持ちになる。

 モールの中では普通の会話だ。

 それにこのくらいの子どもは駄々をこねる。親にかまってほしいのだろうか。しかし、それでも希望通りに行かないことだってある。

 そんな場合は、親を含め周りの大人たちが子どもを窘める必要がある。聞き分けのいい子であれば素直に従うかもしれないが、そうでなければその希望が通るまで声を荒げ、主張を通そうとする。なかなか難しいものである。

 男の子はさらに母親に駄々をこねる。

「のど渇いたー。ジュース飲みたいー。」

「ジュースなら家の冷蔵庫にもあるわよ。帰らないと夕ご飯遅くなるわよ。」

 母親は子どもの希望に抗う。

「違うの! 『エムヴァン』のミックスジュースが飲みたいの!」

 男の子の大きい声はモールという吹き抜けのある開放的な空間で、微かに響いた。

 母親は恥ずかしい顔をしてそのあたりにいた人たちに軽く「すみません」の意味で礼をした。

 そして、少し困った顔をした。

 エムヴァンというのは、このモールの中にある喫茶店である。フランス語で「感動的」という意味らしい。ここは、焼き立てのパンにキャベツや香ばしいチキンを挟んだチキンサンドが名物である。

 また、男の子が飲みたいと言っていたミックスジュースも子どものみならず大人にも人気のジュースである。

 イチゴやキウイ、バナナ、牛乳をミックスして作られたミルクセーキのようなものだ。ミルクベースでなめらかでありながら、イチゴやキウイの酸味が効いて心地の良い味となっている。

 母親は、エムヴァンに連れていくか迷った。いつも優しいこの子がわがままを言うのは珍しかったからだ。

 母親自身もエムヴァンのミックスジュースが好きで、モールに行くと時々、休憩しようと言ってよく立ち寄るので、気持ちは分かる。

 まぁ、わがままを聞いてあげるか。そう思った母親は男の子をエムヴァンに連れていくことにした。

「分かった。でも、ジュース飲んだら帰るわよ。」

「やったー!」

 そして、親子はモールの中にあるエムヴァンへと向かった。

 モールの1階。入り口の近くにあるのが喫茶店・エムヴァン

「いらっしゃいませ。」

店員が、入ってきた親子に挨拶をする。

「2名様ですか?」

「はい」

 母親が答え、店員は奥の空いている席に案内する。なぜか、店員は少し嬉しそうに見えたが、母親は特に何も気にしなかった。

 親子は席に着くと、店員が母親に

「ご注文お決まりになりましたら、ボタンを押してくださいませ。」

そう言って、立ち去ろうとしたが、すかさず母親が

「あっ、注文いいですか?」と聞いた。

「はい、大丈夫ですよ。」と店員はサッとエプロンの右ポケットからメニューを書き込むための注文票を取り出した。

「アイスコーヒーとミックスジュースください。」

「かしこまりました。アイスコーヒーは砂糖おつけしましょうか?」

「なしで大丈夫です。」

「かしこまりました。失礼いたします。」

 店員が注文を書き終えると、会釈して去っていった。店員は一貫して微笑んでいた。接客のお手本と呼べるような接客である。

 また、母親はコーヒーはブラックを好むようだ。

 そしてしばらく待つのだが、その間、男の子は少しソワソワしていた。

 母親はそれに気づき

「どうしたの、トイレ行きたくなった?」

「ううん、別に。」

 男の子は答えるが、それでもソワソワしていた。何か緊張しているような感じである。

 母親は男の子の答えに一旦、納得したものの少し気になっている。

 しばらく待っていたが、飲み物が来ない。

 サンドイッチなどの食べ物であれば作る時間もあるので時間が多少かかるのは分かるが、飲み物だけであれば、ミックスジュースを作る時間などはあったとしても、食べ物よりは時間はかからない。

 もう来てもいいはずなのに、全く来る様子がない。注文が届いていなかったのだろうか。

 母親は少し不思議に思い、近くに店員が来たら声をかけようとした。

 すると、店員がやってきた。

 ただ、店員は何故かケーキを持ってきたのだ。しかも、ろうそくが立っている。

「お待たせしました。」

「え、あの‥‥、ケーキは頼んでいないですよ?」

「ケーキはあちらの方からでございます。」

 店員は、母親の後ろの席を指し、後ろの席にいた人が立って、母親の前に立った。襟のついた紺色のシャツを着た男の人だった。彼は花束を抱えていた。

 母親は驚き、男の子は少しニコッとした。

「誕生日おめでとう。」

 どうやら、この日は母親の誕生日だったようだ。

 母親は口を手で抑え驚きを隠さないでいた。

 店員はニコッと会釈し、去っていく。

「母ちゃん、おめでとう!」

 男の子は満面の笑みで母親に言った。

「あれ? あなた、友達と遊びに行くって言ってなかったっけ?」

「ごめんね、それは嘘。本当は花束を買って、先に喫茶店で待ってたんだ。そこで、サプライズでケーキを持っていってほしいって頼んだんだ。」

 どうやら、彼は父親のようだ。母親の隣に座った。

「ほら、ろうそく消さないと。」

 父親は母親を急かし、母親はあっと思い出したようにろうそくを吹き消した。

 父親は、それを見て小さく拍手した。そして、母親が聞いた。

「エムヴァンに行くこと知ってたの?」

「うん、というか海斗に連れていくように誘導してもらった。」

 父親が男の子に母親を喫茶店に連れて行くようにと言っていたようだ。

 母親は男の子に聞く。

「海斗、知ってたの?」

「うん、父ちゃんにモールに行ったら、エムヴァンに母ちゃんを連れてってほしいって朝に言われたの。」

 男の子は話を続けた。

「でも、母ちゃん、いつもはエムヴァンに行くけど、買い物が長くて、全然行かないから行きたいって言ったの。」

「そうね、確かに今日はりこちゃんママに会ったり、れんくんママに会って喋ったりしたからいつもより長くなっちゃったのよね。ごめん。」

 男の子と同じ保育園に通う仲良しの子どものママに会ってお喋りしすぎてしまったようである。それで、買い物が長くなったようだ。

「でも、お店の人には私たちのこと知らないはずだけど、何でわかったの?」

「それは、海斗の格好をお店の人に教えたんだ。僕は花束を買ったあと、モールで買い物してるところを探してから店に行ったんだ。それで、先回りして店に行ったんだけど、黄色い半袖でGOODGUESTって書いたTシャツを着た男の子と女性がこの後来るので、その方にケーキをお願いしますってお願いしたんだ。」

 父親は母親に説明した。

「そうなんだ。嬉しい。ありがとう! 海斗もありがとうね。」

 男の子はニコッとした。

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